2008年05月16日

京都検定 東福寺

京都検定に東福寺は出題されたことがあります。
ここで、その歴史を見ておきましょう。
 
東福寺は京都市東山区の東南端、伏見区と境を接するあたりにあります。
この地には延長2年(924年)に藤原忠平によって建てられた藤原氏の氏寺・法性寺(ほっしょうじ)がありました
(法性寺は、JR・京阪東福寺駅近くに小寺院として存続しています)。

嘉禎2年(1236年)、九条道家(摂政・鎌倉将軍藤原頼経の父)は、この地に高さ5丈(約15メートル)の釈迦像を安置する大寺院を建立することを発願しました。
寺名は奈良の東大寺、興福寺の二大寺から1字ずつ取って「東福寺」としました。
5丈(約15メートル)の釈迦像を安置する仏殿の建設工事は延応元年(1239年)から始めて、完成したのは建長7年(1255年)でした。
仏殿の工事だけで、実に16年の歳月をかけています。

高さ5丈の本尊釈迦像は元応元年(1319年)の火災で焼失、14世紀半ば頃に再興されるが、明治14年(1881年)の火災で再び焼失しています。
なお、東福寺には巨大な「仏手」(現存部分の長さ2メートル)が保管されており、旧本尊像の左手部分のみが明治の火災の際に救い出されたものと推定されています。
これは創建時の本尊ではなく、14世紀に再興された本尊像の残った部分ですが、本尊の「高さ5丈」(約15メートル)というのはあながち誇張ではなかったようですね。

九条道家は開山(初代住職)として、当時宋での修行を終えて帰国していた禅僧・円爾(えんに、1202−1280)を迎えました。
円爾は駿河国(現在の静岡県)の人で、嘉禎元年(1235年)、宋に渡って径山(きんざん)興聖万寿禅寺の高僧・無準師範(ぶしゅんしばん、1178−1249)に入門します。
印可(師匠の法を受け継いだというお墨付き)を得て仁治2年(1241年)、日本へ帰国しました。
円爾ははじめ九州博多の承天寺に住んでいました。
しかし同寺が天台宗徒の迫害を受けて焼き討ちされたため、九条道家の援助で上洛、東福寺の開山に迎えられました。

東福寺の建設工事は30年以上に亘って続き、法堂(はっとう、顕教寺院の「講堂」にあたる)が完成したのは文永10年(1273年)でした。
その後、元応元年(1319年)の火災をはじめたびたび焼失しますが、九条家、足利家、徳川家などの援助で再建されてきました。
近代に入って1881年にも大火があり、仏殿、法堂、方丈、庫裏などがこの時焼失しています。
現在の本堂、方丈、庫裏などは明治以降の再建ですが、国宝の三門をはじめ、東司(便所)、浴室、禅堂などは焼け残り、中世の建物が現存しています。

東福寺からは歴代多くの名僧が出ていますが、中で特筆すべきは、『元亨釈書』の著者である虎関師錬(こかんしれん)と、室町時代に画僧として活躍し、その後の仏画や水墨画に多大な影響を及ぼした吉山明兆(きつざんみんちょう)でしょう。

 

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2008年05月02日

京都検定 大根焚き

大根焚寺 了徳寺
 
 
法輪山 了徳寺(ほうりんざん りょうとくじ)は、京都市右京区鳴滝にある真宗大谷派の寺です。
通称、大根焚寺といいます。

毎年、12月9日10日の大根焚きの行事で知られています。
大根焚き(だいこだき)とは、京都で12月に行なわれる歳時記、年中行事のことです。
この時に炊かれる大根を食べると、中風にならないと信じられています。

その由縁は古く鎌倉時代までさかのぼります。
鎌倉時代の建長4年(1252年)、親鸞が愛宕山中の月輪寺から帰るとき、鳴滝で説法をし、それに感銘を受けた里人が、他に何ももてなすものがないので、塩炊きの大根をご馳走したのです。
この塩味の大根に大変感謝した親鸞はすすきの穂を束にして筆代わりとし、「歸命盡十方無礙光如來」の十字名号を書いて、そのお礼として渡しました。
この故事に因んで行なわれる報恩講の通称が、大根焚きです。

京都検定では、この大根焚きを絡めた了徳寺の問題が出題されたことがあります。
大根焚きは、京都に古くから伝わる伝統で、いろんな寺で行われます。
それぞれに交流はないようで、また別々の意味合いで行われているようです。

了徳寺の大根焚きはその通称になるほどに有名なため出題されたものと考えられます。
ちなみに親鸞の書いた十字名号「歸命盡十方無礙光如來」の意味は、
「阿弥陀如来に身を委ね、心のよりどころとする」という意味です。

大根焚きの日程は以下のとおり。

毎年 12月  9日 ・ 10日  午前 9:00 〜 午後 4:00

毎年この行事で了徳寺はにぎわいます。

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2008年04月30日

京都検定 金閣寺

金閣寺について

金閣寺はあまりにも有名で、京都検定に出てくるときも、おそらく相当難問のような形で出てくる可能性もあります。
そこで、今回は金閣寺のことを簡単に見ておき、京都検定にも役立つような形になればと思います。

金閣寺が建立される前にもここには寺がありました。
かつてこの地には、鎌倉時代の元仁元年(1224年)に藤原公経(西園寺公経)が西園寺を建立し、あわせて山荘を営んでいました。
これらは公経の子孫である西園寺家が代々所有していました。
西園寺氏は代々朝廷と鎌倉幕府との連絡役である関東申次を務めていました。
しかし西園寺氏は没落します。
幕府滅亡直後に当主・西園寺公宗が後醍醐天皇を西園寺に招待して暗殺しようと企てたという容疑がかけられて処刑されてしまい、西園寺家の膨大な所領と資産は没収されてしまったのです。
このため、西園寺も次第に修理が及ばず荒れていきました。

1397年(応永4年)、足利義満が河内国の領地と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築によって一新しました。
この義満の北山山荘は当時「北山殿」、または「北山第」と呼ばれました。
邸宅とは言え、その規模は御所に匹敵し、政治中枢の全てが集約されました。
義満はここで一切の政務を行ったのです。
アニメの一休さんにでてくる足利義満はいつも金閣寺にいたように記憶しています。
その後、義満は征夷大将軍を子の義持に譲ったが、実権は手放さず、北山殿にあって政務を続けました。
義満の死後、義持によって北山殿は舎利殿を残して解体され、禅寺とされ鹿苑寺と名付けられました。
夢窓疎石を勧請開山(名目上の開山)としています。

金閣寺は俗称。鹿苑寺が正式です。

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2008年04月20日

京都検定 醍醐寺

醍醐寺

 
京都検定のために、醍醐寺について詳しく見てみましょう。

醍醐寺(だいごじ)は、京都府京都市伏見区醍醐東大路町にある真言宗醍醐派総本山の寺院。
山号を醍醐山(深雪山とも)と称します。
本尊は薬師如来、開基(創立者)は理源大師聖宝(しょうぼう)です。
空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が准胝観音(じゅんていかんのん)並びに如意輪観音を笠取山頂上に迎えて開山しました。
そして聖宝は同山頂付近を「醍醐山」と名付けました。

醍醐寺は山深い醍醐山頂上一帯を中心に、多くの修験者の霊場として発展した後(この場所を「上醍醐」と呼称する)、
醍醐天皇は醍醐寺を自らの祈願寺とすると共に手厚い庇護を掛け、その圧倒的な財力によって醍醐山麓の
広大な平地に大伽藍「下醍醐」が発展していきました。

その後応仁の乱など相次ぐ戦争で下醍醐は荒廃し、五重塔しか残らないありさまでした。
しかし豊臣秀吉による「醍醐の花見」をきっかけに紀州などからの寺院建築の移築や三宝院の建設などにより
今日見るような姿となっています。

伏見区東方に広がる醍醐山(笠取山)に200万坪以上の広大な境内をもつ寺院です。
古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。

醍醐の花見

醍醐の花見(だいごのはなみ)とは、慶長3年3月15日(1598年4月20日)に豊臣秀吉が京都の醍醐寺において、豊臣秀頼、北政所、淀殿ら近親の者を初めとして、諸大名からその配下の者など約1300名を従えて盛大に催した花見の宴です。
なぜ、豊臣秀吉はここ醍醐寺で「醍醐の花見」を行ったのか?
応仁・文明の乱のあと荒れ果てていた醍醐寺を復興した中興の祖、第80代座主である義演准后は、豊臣秀吉の帰依を得て良好な関係を築いていました。
その後、秀吉の最期が近いことを感じ取り、一代の華美な英雄の最後にふさわしい大舞台をしつらえるために、あちこちにそれとなく手配をしてこの「醍醐の花見」を催させたというのが有力な説です。

醍醐寺は、時の有力者にまつわる話がたくさんありますので、京都検定では注意が必要です。

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2008年04月18日

京都検定 知恩院

知恩院について

京都検定では、徳川家康に由来する問題などが出題されています。
知恩院は、徳川家にゆかりがあり、京都府でも大変重要な寺院です。
 
知恩院(ちおんいん)は、京都府京都市東山区にある浄土宗総本山の寺院。
山号は華頂山(かちょうざん)。詳しくは華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざん ちおんきょういん おおたにでら)と称します。
本尊は法然上人像(本堂)および阿弥陀如来(阿弥陀堂)、開基(創立者)は法然です。

浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院で、現在のような大規模な伽藍が建立されたのは、江戸時代以降。
将軍家から庶民まで広く信仰を集め、今も京都の人々からは親しみを込めて「ちよいんさん」と呼ばれています。

知恩院は、浄土宗の宗祖・法然房源空(法然)が東山吉水(よしみず)、現在の知恩院勢至堂付近に営んだ草庵をその起源とします。

法然は平安時代末期の長承2年(1133年)、美作国(岡山県)に生まれました。
13歳で比叡山に上り、15歳で僧・源光のもとで得度(出家)。
18歳で比叡山でも奥深い山中にある西塔黒谷の叡空に師事し、源光と叡空の名前の1字ずつを取って法然坊源空と改名しました。
法然は唐時代の高僧・善導の著作『観経疏』を読んで「専修念仏」の思想に開眼し、浄土宗の開宗を決意して比叡山を下りました。
承安5年(1175年)、43歳の時でした。
「専修念仏」とは、いかなる者も、一心に弥陀(阿弥陀如来)の名を唱え続ければ極楽往生できるとする思想です。
この思想は旧仏教側から激しく糾弾され、攻撃の的となりました。
法然は建永2年(1207年)には讃岐国(香川県)に流罪となり、4年後の建暦元年(1211年)には許されて都に戻りますが、翌年の1月、80歳で没しました。

法然の住房は現在の知恩院勢至堂付近にあり、当時の地名を取って「吉水御坊」「大谷禅坊」などと称されていました。
ここでの法然の布教活動は、流罪となった晩年の数年間を除き、浄土宗を開宗する43歳から生涯を閉じた80歳までの長きにわたり、浄土宗の中心地となりました。
ここに法然の廟が造られ、弟子が守っていましたが、嘉禄3年(1227年)、延暦寺の衆徒によって破壊されてしまいます。
文暦元年(1234年)、法然の弟子にあたる勢観坊源智が再興し、四条天皇から「華頂山知恩教院大谷寺」の寺号を下賜されました。
その後も永享3年(1431年)の火災や応仁の乱などで焼失するが、その都度再興されています。

現存の三門、本堂(御影堂)をはじめとする壮大な伽藍が建設されるのは江戸時代に入ってからのことです。

徳川家が知恩院の造営に力を入れたのは、徳川家が浄土宗徒であることや知恩院25世超誉存牛(ちょうよぞんぎゅう)が松平氏第5代長親の弟であること、京都における徳川家の拠点とすること、徳川家の威勢を誇示し、朝廷を牽制することといった、政治的な背景もあったと言われています。

三門や本堂などが国宝に指定されており、特に三門の夜景のライトアップは見事なものです。
今に残る、法然の大衆を救いたいという、意思がここに今も根付いています。

所在地
京都府京都市東山区林下町400


 

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京都検定 永観堂

永観堂


 
京都検定に永観堂についての出題もあります。
京都府の有名な紅葉といえば、永観堂の紅葉になるでしょう。
 
永観堂についても、京都検定の対策に必要です。
 
平安時代初期、弘法大師空海の弟子の真紹(しんじょう)という僧が、東山の麓にあった藤原関雄(せきお)の別荘の寄進を受けて真言宗の道場を建てました。
貞観(じょうがん)5年(863)、真紹の願いによって定額寺(じょうがくじ)(朝廷に保護された官寺)となり、清和天皇から禅林寺の名が下賜されました。
11世紀末に入寺した七世の永観が本尊を阿弥陀如来とし、禅林寺は浄土教の色彩を強めました。
禅林寺の本尊阿弥陀如来立像は、顔を左(向かって右)に曲げた特異な姿の像になっています。

この像については次のような伝承があります。
永保2年(1082年)、当時50歳の永観が日課の念仏を唱えつつ、阿弥陀如来の周囲を行道していたところ、阿弥陀如来が須弥壇から下り、永観と一緒に行道を始めました。
驚いた永観が歩みを止めると、阿弥陀如来は振り返って一言、「永観遅し」と言ったというのです。
本寺の阿弥陀如来像はそれ以来首の向きが元に戻らず、そのままの姿で安置されているのだそうです。
この伝承から、禅林寺はいつしか永観堂(えいかんどう)と呼ばれるようになりました。

藤原関雄の別荘だったころから、この地は名勝地として知られていました。
関雄が紅葉の美を賞して「岩がき紅葉」と詠んだ歌が『古今集』に収められています。
いまも永観堂の紅葉を見物に訪れる人が多いです。
当寺はやはり、紅葉の名所として知られ、古くより「秋はもみじの永観堂」といわれています。

所在地
京都府京都市左京区永観堂町48
posted by けんしろう at 17:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 京都府 永観堂

2008年04月17日

京都検定 仁和寺について

仁和寺について

京都検定で出題された、仁和寺について、少し詳しく見ておきましょう。
 
仁和寺(にんなじ)は、京都府京都市右京区御室(おむろ)にある真言宗御室派総本山の寺院です。
山号を大内山と称します。
正式名称を旧御室御所跡仁和寺といいます。
本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は宇多天皇です。
木造阿弥陀三尊像は、もとは金堂に安置されていましたが、現在は寺内の霊宝館に移されています。
仁和4年(888年)創建時の本尊といわれています。

皇室とゆかりの深い寺で、出家後の宇多法皇が住したことから「御室御所」(おむろごしょ)の別名がつきました。
御室は桜の名所としても知られ、春の桜と秋の紅葉の時期は多くの参拝者でにぎわいます。

徒然草(つれづれぐさ)は、吉田兼好こと卜部兼好(うらべかねよし)が書いた随筆ですが、徒然草に登場する「仁和寺にある法師」の話は著名です。
“古都京都の文化財”の一部として、世界遺産に登録されています。

今日でも国内や外国人の参拝客・観光客の多く訪れる史跡であり、旧御室御所にて茶の湯を振舞う(有料)茶室も用意されています。
また、以前に書いた京都検定の過去問の御室桜が有名です。

京都府の国宝、そして世界遺産の仁和寺、歴史を今に伝える風貌は、見るものを飽きさせることはありません。
 

所在地
京都府京都市右京区御室大内33

 

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2008年04月16日

京都検定 清水寺を深く知る

清水寺の起源

京都検定頻出の清水寺については、知識を深める必要があります。
京都府を代表する清水寺といっても過言ではないため、いろいろな逸話があります。
今回は、清水寺の起源について説明します。

広隆寺、鞍馬寺とともに、平安京遷都以前からの歴史をもつ、京都では数少ない寺院の1つです。
清水寺の縁起はさまざまな伝本があり、『今昔物語集』『扶桑略記』などにも清水寺草創伝承が載せられています。
これらによれば、草創縁起は大略次のとおりです。
宝亀9年(778年)、大和国子島寺(奈良県高市郡高取町に現存)の僧・延鎮(えんちん)上人が、夢のお告げで霊泉を訪ねてたどりついたのが、今、清水寺の建つ音羽山でした。
そこにはこの山に篭って数百年も修行を続けているという行叡居士(ぎょうえいこじ)という修行者(観音の化身ともいう)がいました。
行叡は「自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」と言い残し、去っていきました。
延鎮は、行叡居士が残していった霊木に観音像を刻み、行叡の旧庵に安置しました。
これが清水寺のはじまりといわれています。
 
その2年後の宝亀11年(780年)、鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂(生没年不明)は、修行中の延鎮に出会いました。
田村麻呂は妻の高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来たのですが、延鎮より殺生の罪を説かれ、観音に帰依して観音像を祀るために自邸を本堂として寄進したといいます。
後に征夷大将軍となった田村麻呂は、観音の加護の賜物か、無事東国の蝦夷を平定し、都に帰ることができました。
延暦17年(798年)、延鎮と田村麻呂は協力して本堂を大規模に改築し、観音像の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天の像を造り、ともに祀ったといいます。

これが有力な説ですが、異説も多々あります。ここでは触れませんが、機会があれば触れたいと思います。

延暦24年(805年)に坂上田村麻呂が寺地を賜り、弘仁元年(810年)、嵯峨天皇の勅許を得て公認の寺院となったことは史実とされており、この頃に本格的な寺観が整ったようです。
 
坂上田村麻呂と清水寺は深い関係があります。
しっかりとまとめて京都検定に備えてください。

 

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京都検定 徳川家康

京都検定 徳川家康に関連するもの

京都検定は徳川家康に関連する問題も出ています。
なかなかマイナーな問題で少し苦戦するかもしれません。
 
問い
徳川家康の側近であった石川丈山が隠居所として建てた草庵に始まる寺院はどこか。

答え
詩仙堂(しせんどう)

石川丈山(じょうざん)が建てた寺院は左京区一乗寺の詩仙堂(しせんどう)です。
石川氏は三河の武士、古くから徳川氏に仕えてきました。
重之(丈山)は徳川家康の近習として召しだされ、関ヶ原の合戦に出陣して武勇の誉れを得ました。
元和元年(1615)の大阪夏の陣、重之は一騎駆けの軍功をあげたが、これは軍令に違反する行為でした。
一騎駆けは、戦場では大変勇気の必要な行為です。
家康はやむなく蟄居(きっちょ)を命じ、重之は致任しました。
武士を辞した重之は上洛して藤原惺窩(せいか)に学びました。
丈山と号し、洛北一乗寺村に土地を購入して隠居所を建て、くぼんだ地形にちなんで凹凸(おうとつか)と名づけたのです。
凹凸の一室「詩仙の間」の名称が詩仙堂となりました。
 
凹凸とはでこぼこの土地に建てられた住居の意味であり、建物や庭園は山の斜面に沿って作られています。
庭園造りの名手でもある丈山自身により設計された庭は四季折々に楽しむことができ、特に春(5月下旬)のサツキと秋(11月下旬)の紅葉が有名で観光客で賑わいます。
 
京都府の中では比較的知れ渡ってはいない観光地かもしれませんね。
庭園作りの名人の丈山の庭は見事なものです。
 
京都検定を受けるに際しては、このような分野からも出題されることをお忘れなく。

所在地 京都府京都市左京区一乗寺門口町27

 

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2008年04月15日

京都検定 豊臣秀吉

京都検定に秀吉が?

京都検定に秀吉に関連する問題が出されたことがあります。
 
天正15年(1587)、豊臣秀吉が、平安京の内裏跡である内野に築城した居館の名称はどれか。
答えは
 

聚楽第

聚楽第(じゅらくだい)は、安土桃山時代に豊臣秀吉が京都の内野(平安京の大内裏跡、現在の京都市上京区にあたる)に建設した堀をめぐらした大邸宅です。
聚楽亭ともいわれます。町なかに築いた一種の城であり、聚楽城(じゅらくじょう)ともいわれます。

聚楽第は瓦には金箔を貼るなど大変贅沢なものだったそうです。
「第」(= 邸)とあるが、天守を持つ本丸を中心に二の丸などの曲輪を持ち、堀を巡らしており、実際は平城(ひらじろ)でした。
邸内には千利休を始め側近の屋敷も作られました。

聚楽第取り壊し

1591年12月に秀吉が関白職を甥の豊臣秀次に譲ると聚楽第も秀次のものとなり、その際後陽成天皇を再び迎えています。
秀吉は隠居後の居所として1594年には伏見城の築城を始めるが、翌1595年に関係が悪化していた秀次を高野山に追放した後切腹を命じるに及んで聚楽第も取り壊されました。

京都検定に出された秀吉に関する問題です。

聚楽第については教科書に名前くらいは載っているため、知っている人は多いでしょう。
しかし、地理的なことまで知っているひとはごくわずかなのではないですか?

京都検定では、歴史的な問題に地理をあわせたような問題が出されます。
平面的な知識では京都検定を攻略することは難しいです。
歴史、地理、文化を総合的に学んでください。

posted by けんしろう at 00:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 京都検定